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眉間白毫相【法話会からの切り取り】 [法華経講話]
お釈迦さまのオデコにホクロみたいなのが付いています。
これを「眉間白毫相(みけんびゃくごうそう)」といいます。
「毫」というのは細い毛のことで、お釈迦さまのオデコにあるのはホクロではなく白く細い毛です。
あ、オデコでなくて眉間、です。
頭髪でもなく眉毛でもありません。「眉間白毫相」です。
1本の白く長い毛です。
「えっ?1本?」
はい。そうです。
長さ1丈5尺(約4.5m)の白い毛が、右巻きに丸まっています。
左巻きは「理(真理・道理)」を
右巻きは「智(理を運用するはたらき)」を表します。
悟りを開いた直後のお釈迦さまが、
「自分には衆生を教え導く力があるのか」と悩んでいるところにブラフマン(梵天)が現れ、「あなたはその力を持っている。これが証拠だ!」
と言って授けたのがこの眉間白毫相、というのが手塚治虫の『ブッダ』の中で描かれていたと思います。
法華経では、この眉間白毫相から光を放って東方万八千の世界(大宇宙)を照らします。
さてこの眉間白毫相の巻き方。
左巻きは真理や道理を表し、右巻きはその真理や道理を運用するはたらきを表します。
左巻きではなく右巻きです。
お釈迦さまは右巻きです。
あ、いや、お釈迦さまはではなくて「眉間白毫相」は右巻です。
道理や真理は存在するだけではなく、それを運用するはたらきがあって初めて意味をなします。
「知っている」と「やっている」は違うのです。
「分かっていたけどやらなかった」では話しにならないのです。
せっかく身に付けた知識や資格も、活かさなければ使わなければ意味がありません。
仏教は、学ぶだけ体験するだけではなく、実践する宗教なのです。
これを「眉間白毫相(みけんびゃくごうそう)」といいます。
「毫」というのは細い毛のことで、お釈迦さまのオデコにあるのはホクロではなく白く細い毛です。
あ、オデコでなくて眉間、です。
頭髪でもなく眉毛でもありません。「眉間白毫相」です。
1本の白く長い毛です。
「えっ?1本?」
はい。そうです。
長さ1丈5尺(約4.5m)の白い毛が、右巻きに丸まっています。
左巻きは「理(真理・道理)」を
右巻きは「智(理を運用するはたらき)」を表します。
悟りを開いた直後のお釈迦さまが、
「自分には衆生を教え導く力があるのか」と悩んでいるところにブラフマン(梵天)が現れ、「あなたはその力を持っている。これが証拠だ!」
と言って授けたのがこの眉間白毫相、というのが手塚治虫の『ブッダ』の中で描かれていたと思います。
法華経では、この眉間白毫相から光を放って東方万八千の世界(大宇宙)を照らします。
さてこの眉間白毫相の巻き方。
左巻きは真理や道理を表し、右巻きはその真理や道理を運用するはたらきを表します。
左巻きではなく右巻きです。
お釈迦さまは右巻きです。
あ、いや、お釈迦さまはではなくて「眉間白毫相」は右巻です。
道理や真理は存在するだけではなく、それを運用するはたらきがあって初めて意味をなします。
「知っている」と「やっている」は違うのです。
「分かっていたけどやらなかった」では話しにならないのです。
せっかく身に付けた知識や資格も、活かさなければ使わなければ意味がありません。
仏教は、学ぶだけ体験するだけではなく、実践する宗教なのです。
五濁の悪世【法話会からの切り取り】 [法華経講話]
方便品に、『諸仏は五濁(ごじょく)の悪世に出でたもう』
という一文があります。
五濁とは「劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁」の5つ。
①劫濁(こうじょく)
劫とは長い時間の流れのこと。
時代の乱れで戦乱・天災・疫病などが起こることを「劫濁」と言います。
平和で気候も安定して健康でいられるなら、こんなに幸せなことはありません。しかし現実はそうはいきません。
最初は順調であった人間関係も、付き合いが長くなれば意見や考え方の違いに気づき、疎遠になることもあります。
疎遠になれればまだ良い方で、仕事や町内会などの付き合いで接触が避けられない間柄だと気まずい思いをすることになります。時には揉め事になってしまうこともあるでしょう。
個人同士の関係であればこの程度ですみますが、利害関係のある国家間となると戦争に発展してしまう可能性もあります。
また、長い歴史の中では気候の乱れや疫病の流行は必ず起こります。
これが、「劫濁」。時を重ねれば必ず起こる濁りや乱れです。
②煩悩濁(ぼんのうじょく)
貪り・瞋(いか)り・妬みの「三毒」から起こす自己中心的な心のこと。
「三毒」とは私たちの心を蝕む3つの毒です。
先ずは「貪り」
1つよりも2つ。2つよりも3つ欲しい。「備えあれば憂いなし」とは言いますが、備えに心を奪われるとかえって憂いが増してしまいます。
「足る」ことを知ろうとしない貪りの心です。
次は「瞋(いか)り」
「怒」ではなく「瞋」の「いかり」です。
「怒」には、感情に心を込める、という意味があります。
「瞋」の「眞」にはつめこむという意味があり、怒りがいっぱいになったときの目。いかって目をむくというのが「瞋」。
「怒り」は一時的なもの。冷静になって考えたら、相手にも都合や立場があることや、そもそも価値観が違っていたことに気付くことが出来ます。
「瞋」は、周りの都合や相手の立場など考えらない状態でしょう。
3つめは「妬み」
経文には「嫉妬」という言葉がよく出てきます。
談志の弟子であった談春が入門間もないころ、年上の弟弟子・志らくとの関係に悩んでいた時、師匠の談志がこう語りかけました。
「己が努力・行動を起こさずに、
対象となる人間の弱みをあげつらって
自分のレベルまで下げる行為。
これを嫉妬というんです。
一緒になって同意してくる仲間がいれば
更に自分は安定する。
本来なら、相手に学び抜くための行動、
生活を送ればそれで解決するんだ。
しかし人間はなかなかそれができない。
嫉妬している方が、楽だからな」
これ以上の説明は不要ですね。
以上が、私たちに心を蝕む「三毒」です。
③衆生濁(しゅじょうじょく)
人々の資質が低下し、互いを理解し合うことが出来なくなること。
前述の「煩悩濁」に犯されてしまうと、こうなることは必然です。
④見濁(けんじょく)
「見」とは見解や思想という意味で使われます。
これまでの4つを振り返ってみれば、正しい思想や見解を保つことは難しくなります。
⑤命濁(みょうじょく)
人間の寿命が短くなることです。
気候のみだれ・疫病・戦争などで多くの人が命を落とします。
また、自己中心的な行動をとるひとが増え、ストレスから心を病む人も出てくるでしょう。
以上が「五濁」。
経文には、『諸仏は五濁の悪世に出でたもう』と説かれています。
五濁の悪世に仏さまが現れて苦しむ私たちを助けてくる、ではありません。
五濁の悪世にこそ、私たちひとりひとりが仏さまの教えを実践することが大切だぞ、という意味です。
苦しいとき辛いととき。私たちは自分の事しか考えられなくなってしまいます。
しかし、そのままの気持ちを行動に移しても何も解決しないことも、私たちは知っています。
私たちはみな、心の中の仏さまの心を持っています。
苦しいとき、辛いときこそ、心の中の仏さまの声に耳を傾けてみましょう。
という一文があります。
五濁とは「劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁」の5つ。
①劫濁(こうじょく)
劫とは長い時間の流れのこと。
時代の乱れで戦乱・天災・疫病などが起こることを「劫濁」と言います。
平和で気候も安定して健康でいられるなら、こんなに幸せなことはありません。しかし現実はそうはいきません。
最初は順調であった人間関係も、付き合いが長くなれば意見や考え方の違いに気づき、疎遠になることもあります。
疎遠になれればまだ良い方で、仕事や町内会などの付き合いで接触が避けられない間柄だと気まずい思いをすることになります。時には揉め事になってしまうこともあるでしょう。
個人同士の関係であればこの程度ですみますが、利害関係のある国家間となると戦争に発展してしまう可能性もあります。
また、長い歴史の中では気候の乱れや疫病の流行は必ず起こります。
これが、「劫濁」。時を重ねれば必ず起こる濁りや乱れです。
②煩悩濁(ぼんのうじょく)
貪り・瞋(いか)り・妬みの「三毒」から起こす自己中心的な心のこと。
「三毒」とは私たちの心を蝕む3つの毒です。
先ずは「貪り」
1つよりも2つ。2つよりも3つ欲しい。「備えあれば憂いなし」とは言いますが、備えに心を奪われるとかえって憂いが増してしまいます。
「足る」ことを知ろうとしない貪りの心です。
次は「瞋(いか)り」
「怒」ではなく「瞋」の「いかり」です。
「怒」には、感情に心を込める、という意味があります。
「瞋」の「眞」にはつめこむという意味があり、怒りがいっぱいになったときの目。いかって目をむくというのが「瞋」。
「怒り」は一時的なもの。冷静になって考えたら、相手にも都合や立場があることや、そもそも価値観が違っていたことに気付くことが出来ます。
「瞋」は、周りの都合や相手の立場など考えらない状態でしょう。
3つめは「妬み」
経文には「嫉妬」という言葉がよく出てきます。
談志の弟子であった談春が入門間もないころ、年上の弟弟子・志らくとの関係に悩んでいた時、師匠の談志がこう語りかけました。
「己が努力・行動を起こさずに、
対象となる人間の弱みをあげつらって
自分のレベルまで下げる行為。
これを嫉妬というんです。
一緒になって同意してくる仲間がいれば
更に自分は安定する。
本来なら、相手に学び抜くための行動、
生活を送ればそれで解決するんだ。
しかし人間はなかなかそれができない。
嫉妬している方が、楽だからな」
これ以上の説明は不要ですね。
以上が、私たちに心を蝕む「三毒」です。
③衆生濁(しゅじょうじょく)
人々の資質が低下し、互いを理解し合うことが出来なくなること。
前述の「煩悩濁」に犯されてしまうと、こうなることは必然です。
④見濁(けんじょく)
「見」とは見解や思想という意味で使われます。
これまでの4つを振り返ってみれば、正しい思想や見解を保つことは難しくなります。
⑤命濁(みょうじょく)
人間の寿命が短くなることです。
気候のみだれ・疫病・戦争などで多くの人が命を落とします。
また、自己中心的な行動をとるひとが増え、ストレスから心を病む人も出てくるでしょう。
以上が「五濁」。
経文には、『諸仏は五濁の悪世に出でたもう』と説かれています。
五濁の悪世に仏さまが現れて苦しむ私たちを助けてくる、ではありません。
五濁の悪世にこそ、私たちひとりひとりが仏さまの教えを実践することが大切だぞ、という意味です。
苦しいとき辛いととき。私たちは自分の事しか考えられなくなってしまいます。
しかし、そのままの気持ちを行動に移しても何も解決しないことも、私たちは知っています。
私たちはみな、心の中の仏さまの心を持っています。
苦しいとき、辛いときこそ、心の中の仏さまの声に耳を傾けてみましょう。
アジャセ王【後編】 [法華経講話]
《前編からの続き》
「お釈迦さまはもうお歳を召されました。弟子も増え規模の大きくなった教団をこれ以上率いていくのは難しいでしょう。今はまだお許しをいただけておりませんが、同じ釈迦族である私が跡を継ぐべきだと考えております。
アジャセ王【前編】 [法華経講話]
法華経の冒頭では説法の座にあつまった弟子信徒や諸天善神の名前が列記されていますが、その最後に「韋提希の子・阿闍世(イダイケの子・アジャセ)」の名が記されています。
アジャセとは、マカダ国のビンビサーラ王と妻韋提希の子供です。
アジャセとは、マカダ国のビンビサーラ王と妻韋提希の子供です。
(取り合えず)ご報告です [日記]
ブログのリニューアルを計画しておりましたが、何だかんだで勤めていたお寺を辞めて独立(?)というか、将来的には結社設立を目指して活動を開始しました。
早い話が、自分でお寺を作ろう、というわけです。
「お寺」と言っても広い境内や立派な伽藍を建てようというのではなく、
~仏さまの教えを広める場~という意味でのお寺、です。
ホームページも開設しました。
このブログをどうするかはまだ未定です。
ホームページ内で新たに始めるか。
このサイトをそのままホームページ内に持っていくか。
考え中です。
取りあえずはホームページのURLを書きますね。
もしよろしかったらご覧になってください。
さらによろしかったら、
ぜひご来訪ください。
お寺のタマゴ『日照庵』
https://nisshoan.com/
早い話が、自分でお寺を作ろう、というわけです。
「お寺」と言っても広い境内や立派な伽藍を建てようというのではなく、
~仏さまの教えを広める場~という意味でのお寺、です。
ホームページも開設しました。
このブログをどうするかはまだ未定です。
ホームページ内で新たに始めるか。
このサイトをそのままホームページ内に持っていくか。
考え中です。
取りあえずはホームページのURLを書きますね。
もしよろしかったらご覧になってください。
さらによろしかったら、
ぜひご来訪ください。
お寺のタマゴ『日照庵』
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